今夜はわたしが腕をふるって
体が芯からぬくもるおいしい薩摩汁を…

あっ!!

み 味噌が 味噌が無い

川原泉『アップル・ジャック』より

 

入居3日目

これは由里さんが平屋建ての木造住宅
(中には夢のマイホームと呼ぶ人もいる)に越してきて3日目の
まだ全然片付いてない台所。

以前お昼の民放ドラマを見ていたら
新居に越してきた奥さんが段ボールを開け、新聞紙の包みを解き、
出てきた食器をいきなりそのまま食器棚に収めていた。
それで構わない人は、構わないのかもな。
でも、その皿、荷造りの過程で埃にまみれてないか?
新聞紙だって蜘蛛の巣の張った物置の中にあったやつだしさ。
だから私は、新居に着いたら全ての鍋釜食器を洗いまくる。
大変な量の水仕事だ。
元・皿洗い職人(栄養士ともいう)の私でさえもうんざりする。
まあ、有難いことに、ここはアメリカ。大きな食器洗浄機がある。
私はただ段ボールから出した皿や鍋釜を洗浄機に放り込んで
約1時間半後、粗熱が取れたら食器棚の中に移すだけで済む。
洗浄機にはもちろん乾燥機能も付いてるから、洗った物を拭く手間も無い。
布巾の洗濯・殺菌から始めねばならなかった日本の転居と比べたら
涙が出るほどにラクなんである。
その上に私は、専業主婦である。
手のかかる乳幼児や介護の必要な老父母はいないので
新居の片付けだけに専念していればいい。
アパート時代のように階下の住人に気を遣う必要も無いから
大きな音の出る食器洗浄機も真夜中まで回し続けられる。
気力さえ続けば、1日15時間を引越しの後始末に充てることが可能だ。
しかも今回の転居は隣の市に移るだけの近距離だったので
事前に何度か新居に通い、台所の掃除は8割方済ませてあったんである。
それだけの好条件が整っているのに
なのに…なのに、
入居から3日が過ぎて、私の台所は未だこの惨状だ。
調理台の上には洗いきれずに残った半端な皿小鉢が居座っている。
行き場の定まらない米びつ、パンダのかき氷器、胡椒挽き、
インスタントコーヒーの空き瓶、食べかけのコーンフレークス、ゴマ油。
食器棚の中だって、洗浄機から出した物を闇雲に積み上げただけだから
ほら、ドンブリの上にまな板が載ってる。
サラダボウルの上に鍋の蓋が載ってる。(鍋本体は見当たらない)
ちょっと疲れた。茶でも飲みたい。でも、ヤカンはどこだろう。
肝心の茶葉も行方不明だ。
この台所が完全に片付いたのは、引越しから10日以上後のことであった。
 ? 職業婦人と期末試験前の男子高校生の所帯なのに
   エリカさんの台所は何故にこんなに片付いてるんだ!(単行本p42)


10日たって片付いたと言ったが、それはあくまでも台所に限っての話だ。
寝室と浴室はなんとか使用できる程度に掃除をしたが
居間や夫の書斎になる予定の部屋は、全く手付かずで放置されている。
玄関の下駄箱の上に花瓶だの絵だのを飾ったりは勿論できていない。
まあ、そもそも私の家には下駄箱がないんだが。
玄関脇の部屋には、段ボールが人の背よりも高く積まれている。
その側には、30ガロン(113リットル)のゴミ袋が4つも転がっている。
中身は段ボールから引き剥がしたガムテープ、掃除に使ったボロ布、
便所ブラシの包装フィルム、作業中に切った指に巻いた絆創膏の裏紙等
臭いが出たり虫が湧いたりの心配が無い(または少ない)ゴミばかりだから
始末を急ぐ必要は無いのだけれど、でも、邪魔だ。
今度の新居は無駄に面積があるのでまだ許せるが
日本のアパートの引越しだと、ゴミで足の踏み場が無くなってしまうから
収集日には隣近所の目を気にしつつ、大きなゴミを3つも4つも出していた。
 ? エリカさんちの玄関先は、どーしてこんなに片付いてるんだ!(単行本p42)
 ? 引越し4日目の朝の北原家のゴミはこれっぽっちか…(単行本p45)

 

 

引越しの片付けに追われる間は、誠に遺憾ながら料理も手抜きだ。
引越し当日は外食をした。
翌日は、昨日食べきれずに持ち帰ってきたスパゲチを温めるだけ。
でも、困ったことにフォークが見つからない。スプンもナイフも無い。
洗った記憶はあるのだが、いったいどこに「片付けた」んだろう。
菜箸を発掘できたから、手掴みよりはマシだな。
3日目は、よーやく自分でご飯を炊き、
半月前に大量に作り冷凍しておいたドライカレーを食べた。
でも、サラダなんか用意する余裕はない。
仕方が無いからドンブリ1杯のプチトマトを食う。
ただ洗うだけの包丁要らず。所要時間1分。
その後も冷凍しておいたハンバーグ、冷凍しておいた煮豆料理、
備蓄が尽きたら仕方がないから目玉焼き、と
まるで1度も台所に立ったことのないパパのお留守番の如き食生活が
延々と半月間も続いたのであった。
 ? 腕をふるって薩摩汁?(単行本p42)
   そんな暇があったら、私の爪切バサミを探してくれ!


さて。
引越しトラックに積む冷蔵庫は、中身を全部出して空にする必要がある。
遅くとも前日までには電源を抜き、霜取りもしておかねばならない。
ごく少量の食品ならばクーラーボックスで保存・輸送も可能だが
基本的にはナマ物は転出前に食べ切る、または捨てるのが正しい。
だから引越し直後の私の冷凍庫には、千切り牛蒡も里芋も油揚げもない。
ドライカレーとハンバーグと煮豆でクーラーボックスが満杯だったのだ。
冷蔵庫には人参もない。葱も無い。(プチトマトなら買いだめしてあるが。)
味噌は元来は常温保存が可能な食品だったわけだが
近年の塩分の少ない健康的な味噌は、開封後は冷蔵保存が常識である。
という訳で、このとき、うちには味噌もない。煮干しもない。
(醤油なら1本余分のがあるんだけど。)
前の味噌はまだ大量に残っていたので本当は少し勿体無かったが
よく見りゃ賞味期限を半年も過ぎていたので、潔くゴミ袋に放り込んだ。
極く少量残っていた煮干は、引越し直前の味噌汁で強引に使い切った。
ついでに言うなら、マカロニも引越し2日前の昼で食べ終えた。
空き袋は、その場で捨てた。
マカロニの袋は冷蔵する必要が無いから、新居に持って行くことはできる。
が、とても無駄だと思う。
 ? エリカさんは後生大事に空の味噌袋を抱えて引っ越したらしいが。(単行本p42)

 

なんだか妙に謎めいたエリカさんの引越しである。

 

た・だ・し。
エリカさん達が「搬出・輸送・搬入・家具設置」のお安いコースで無く
梱包と荷解きまで全てお任せのらくらくパックを使ったのであれば
上記の「?」は全て解決する。
引越し当日は大勢の作業員が忙しく動き回って
その日のうちに家中をすっかりきちんと片付けてくれる。
その気になれば、翌日からほぼ平常通りの生活が営めるんである。
段ボールを始めとする梱包材は全部持ち帰ってくれるから
翌日以降のゴミも「普段よりやや多め」くらいで済むだろう。
冷蔵庫の中身全てを保冷車で運んでくれる業者もあるかもしれない。
その場合、冷蔵庫に空の味噌袋が入っていても
作業員は勝手にそれを捨てたりはしない。
事実、2年前に「お任せパック」を利用して転居した姉によれば
新居に運び込まれた屑籠に、旧宅の紙屑が元のまま詰まっていたそうだ。
他人にはゴミにしか見えなくても本人には宝物ってことがあるからな^^
だから作業員は何も言わず、そこにある物全てを梱包する。
(通関・検疫のある海外引越しの場合は事情が異なるが
それは今のエリカさんには関係のない話。
ガードナー中尉とミチコさんは体験したかもしれないけど。)
とゆー訳で、引越し当日と翌日は外食で我慢したエリカさんが
3日目、今日はどーしても自分で作った薩摩汁を食べたいと思い、
しかし冷蔵庫の味噌袋は不幸にも空だった、という事態になったとしても
さほど不思議じゃあないのである。

私のようにヒマを持て余した健康な専業主婦がいる貧乏家庭にとっては
らくらくパックはとんでもなく値の張る無駄な贅沢品だが
エリカさんちのような世帯構成なら、それに頼るのは止むを得ない。
それに、エリカさんちは、さほど経済的に困窮しているようには見えないし。
リンゴが安かったから1箱買っちゃうというのは
大金持ちの行動ではないけれど
明日の米にも事欠く貧乏人のやることでもないと思うし。
透君は久美子ちゃんを遊園地に誘ってるし。
モデルさんって、高収入なのかな。
私もモデルになろうかな^^

2002.9.16


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